日々心豊かに過ごしたい、これは多くの人の願いです。とはいえ夜、眠りにつく前に振り返ってみたとき、一日を思いどおりに送れたといい切れる人がどれだけいるでしょうか。自分なりに予定や計画を考えているにもかかわらず、判断を誤ってしまったり、心が揺らいで思わぬことをしてしまう。なぜ、そのようなことが起きてしまうのか。行動経済学を専門とする大阪大学の大竹文雄教授が、うまくいかない理由とそれを防ぐアドバイスをしてくれるシリーズの後編です。
⚫︎何ごとも、うまく行かない前提で考える
―先生は伝統的経済学を離れて、行動経済学に移られました。その理由は何だったのでしょうか。
大竹:伝統的経済学を深めていくうちに、この学問は社会全体の動きをある程度説明できるけれども、説明のつかない部分もいくつもあると気づいたのです。伝統的経済学においては、競争状態を前提としてものごとを考えていきます。したがって競争に勝ち残った人を観察すれば、経済の動きを理解できると考えるのが伝統的経済学です。実際に、経済の大きな動きを見る場合にはこの理解も、ある程度正しいと思います。競争に勝ち残った合理的な人だけを見ていると競争市場の動きを理解できます。しかし、競争市場で負けた大多数の人たちや家庭や職場の中のような競争市場で動いていない組織の中での人々の行動はうまく掴めません。その点、認知能力が限られていて、さまざまなバイアスをもっているという多数派の人間を前提として考える行動経済学の説明には、強い説得力を感じました。人間の行動考察を通じて、具体的により良い仕組みづくりや行動の仕方などの処方箋を提供できるのが、行動経済学の実践的で良いところです。これに対して伝統的経済学では、個別の企業や個人にアドバイスすることはほとんどありませんでした。
―伝統的経済学が主に理論を追究するのに対して、行動経済学では理論に基づいて具体的なアドバイスもできる点がよかったのですか。
大竹:伝統的経済学では「人は常に最善の選択肢を選ぶ」というのが大前提となっています。最善の選択をできる人たちは、必要な情報を自ら獲得し、その情報のもとで最適な行動をとることができます。そういう人たちに、第三者が何かを教える必要などありません。一方で行動経済学では人間を、最善の選択肢を選ぼうとするにもかかわらず、そのとおりには必ずしもできない存在だと考えます。いつも必ずうまく行かないという話ではなく、うまく行かない状況があるということです。そういう人間を前提として考えていくのです。では、なぜうまくいかないのか。その原因を追究していくと、特定の場合にうまく行かないケースの多い実態がわかってきました。そこに絡むのがバイアスです。
⚫︎さまざまなバイアスが判断を誤らせる
―バイアス、すなわち前編で説明していただいた「人間が意思決定をする際に無意識に生じる、思考の偏りや心理的な歪み」ですね。
大竹:前回「現在バイアス」について説明しましたが、これはわかりやすくいえば、とにかく将来のためには今はこのようにした方がいいと分かっているのに、「今が大事、今すぐ得をしたい」と考えてしまう思考のクセです。少し理屈っぽくなりますが、人には将来の価値については割り引いて考え、逆に現在の価値をより大切に考える傾向があります。たとえば、1年後に1万円もらう場合と1年と1週間後に1万100円もらう場合にどちらを選ぶかを問われると、多くの人は、1万100円を選ぶと思います。これは、1年も先のことであればかなり我慢強い選択ができるということです。しかし、今日1万円もらう場合と1週間後に1万100円もらう選択肢がある場合にどちらを選ぶかと問われると、たいていの人が今日1万円もらう方を選びます。将来もらえる1万100円より、今すぐもらえる1万円のほうに価値を認めてしまうのです。1年先ぐらいのロングスパンで考えれば、我慢強い意思決定をできるのに、今日のことになると変わってしまいます。夏休みの宿題も、夏休みの前は最初の方にやってしまおうと計画を立てるのに、夏休みが始まると先延ばしをして、結局夏休みの最後にしてしまったという経験をもっている人は多いと思います。これも典型的な現在バイアスの例です。
―確かに「現在バイアス」は、多くの人に共通するように思えます。ほかにはどのようなバイアスがあるのでしょうか。
大竹:比較対象によって幸福度や意思決定が変わる「参照点依存」も、よく知られています。たとえばオリンピックの表彰式などではよく、銀メダルを取った人が泣いていて、銅メダルを取った人が喜んでいたりします。これも不思議な現象ではないでしょうか。本来なら銅メダルで終わった人より、銀メダルを取った人のほうが喜んでよいはずです。しかし、そうならない理由は、銅メダルを取った人と銀メダルの人では、比較している対象が違うからです。銅メダルの人は「メダルを取れなかった」状況と比べているから、とにかくメダルを取れただけでうれしい。これに対して銀メダルの人は「もう少しがんばれば金メダルを取れたかもしれないのに」と金メダルを取れた状況と比較して考えるから、金メダルを取れなかったために悲しくなるのです。
―合理的に考えれば、銀メダルでも喜んでいいはずなのに、そうはならないのですね。
大竹:常に合理的な意思決定を実際に行うのは、決して簡単なことではありません。非合理的な考え方については、「サンクコストの誤謬」という現象もあります。サンクコストとは、すでに支払ってしまっているため、取り戻せない費用を意味することばです。たとえば、前評判の高い映画を見に行ったのはよいけれども、見始めてすぐに明らかにつまらない映画だとわかったとします。そんなとき多くの人はどうするでしょうか。時間がもったいないからと考えて、すぐに退出してほかの何かをするでしょうか。それとも、せっかくチケット代を払ったのだから、最後まで見続けますか。
仮に上映時間が2時間だとすれば、求められるのは、その2時間を有意義に使うかどうかの判断です。たしかにチケット代は無駄になるけれども、それに加えて映画を見る2時間までも無駄にしたりせず、なにか別のことをしたほうが有意義ではないでしょうか。映画を見る見ないにかかわらず、払ってしまったチケット代は戻ってこないのです。このチケット代がサンクコストです。つまりサンクコストは、これからの行動によって変えられるものではないので、これからの行動で変わるものだけに注目して、行動を変えるべきなのです。

⚫︎バイアスを自覚して、活用する
―普段、あまり深く考えずに意思決定して行動していますが、改めて考えると、それで損しているケースもありそうです。
大竹:ほかにも私たちは確実さを好むがために、判断を誤るケースもあります。仮に何かに取り組むときに成功する確率が99.9%であれば、伝統的経済学ではほぼ確実だと考えています。しかし、実際に人はどのように判断しているでしょうか。100%確実な状況と、わずか0.1%でもリスクがある場合では、大多数の人が受け止め方を変えます。
ダイエットを例にするなら、今日頑張ったからといって、その成果が現れるかどうかわからないという不確実性があります。だから、どうしても今ひとつヤル気になれない。そういうときにやる気をもたらすためには、リアルタイムでのフィードバックが大切になってくるのです。企業なら課題を与えられた部下が、頑張っている様子を見せているときには、上司がすかさず「よくやっているね」とひと言かけてあげる。それだけで部下のモチベーションは高まります。
―意思決定に際しては、ルール化をうまく使うのも効果的だと思いますが……?
大竹:人にはバイアスがあるため、無意識のうちに最善とはいえない選択をしがちです。だから重要でないことに関しては、あらかじめルール化しておくのがよいと思います。ルールというのは、積極的な理由がなければそれに従うものです。私たちは、デフォルト(初期設定)に従うのが楽ですし、現状維持も好きです。会社で机がフリーアドレスになっても、ほとんどの人は毎日同じ席についていると思います。現状維持バイアスはとても強いのです。そうした私たちの特性をうまく使うのです。
実は私も、行動経済学に取り組む前は、ルール化などは愚の最たるものだと考えていました。なぜなら、そのときどきで環境は変わってくるのだから、TPOに応じて最適な判断をするのがベストだと思っていたのです。認知資源が無限であれば、その都度考えて最善を選べばよいのでしょうが、残念ながら人間の認知資源には限りがあります。だから、余計なことを考えずに済むよう、できることはルール化しておくほうがよいのです。
―いちいち立ち止まって考えようとすると、そのための時間も必要になりますね。
大竹:それは間違いないところで、逆に時間のないときにベストな思考をするのは、ほとんど無理といえるでしょう。私は新型コロナ禍のときに政府の分科会のメンバーを務めていました。とにかく緊急事態ですから、その対策を考える必要があります。メンバー全員が知恵を振り絞って考えましたが、それがベストだったかといえば、残念ながら必ずしもそうとはいえません。後から振り返ってみると、いくつか見落としもあるのがわかりました。要するに急に短時間でベストなアイデアを出せ、と急かされても、それはかなり難しい。もちろんあらかじめ緊急事態を想像しておくのも難易度の高い作業ですが、それでも事前に準備しておかなければ、いざというときにベストな判断は下しにくい。あらゆるテーマに対して、持てる認知資源を常にすべて使うのは無理なのです。だから、ルール化できることはそうしておいて、心にゆとりを持って大事なテーマに集中するのが一番だと思います。そのために、感染対策では事前に行動計画がきちんと立てられているのです。しかし、少しその行動計画が実態と合わないとなった途端に、新たに最適なものを考えようとしてしまったのです。でも、その時に最善のことを全て考える余裕は実際にはありませんでしたし、緊急時ほど様々な意思決定のバイアスに影響されてしまうのです。
⚫︎自分の選択の後押しとしてナッジを使う
―集中するという意味では、現状は情報が多過ぎるのも問題ではないでしょうか。
大竹:だから、多くの人が認知能力を知らず知らずのうちに消耗させているのでしょう。仕事をしていると、毎日大量のメールやメッセージに目を通さなければならないと思います。それらを読んで返事をするだけで、無意識のうちに相当な認知負荷がかかっています。仕事以外でもSNSやショート動画を眺めたりしていれば、仕事のときほど集中していないとはいえ、それなりに消耗しています。だから、自分なりに意識して工夫しないと、限られた認知資源が枯渇しがちになる、これが現状だと思います。
―認知資源の無駄遣いをできるだけ抑えて、より良い選択をするためには、どうすればよいのでしょうか。
大竹:やはり時間のあるときに、人から強制されるのではなく自発的に計画を立てておくのがよいでしょう。それもできるだけ細かなところまで計画を落とし込んでおくのです。たとえば、子どもに勉強をさせるときなら、単に勉強しなさいとだけ命じるのではなく「これからの30分で算数ドリルの10ページから15ページをやろう」と話せば、子どもは何も悩まずに集中して課題に取り組めます。
同じように自分に対しても、まず細かな計画を立てて、一つ始めれば自動的に次から次へとこなしていけるようにしておくとよいのです。そして一つ課題をクリアできれば、達成できたのだとわかりやすくしておく。行動経済学に「目標勾配効果」という概念があります。ゴールに近づけば近づくほど、人はヤル気を出すものです。努力した結果として、どれだけゴールに近づいたのかがわかるようにしておくと、目標達成率が高まります。
―目標勾配効果という点でも「Mental Battery」や「Mentoring 2」の仕組みは有効に働きそうです。
大竹:「Mental Battery」や「Mentoring 2」には、自分の状態が数値でわかるので、目標を設定しておけば、その目標に近づくほどそのための努力をするという方向に使えると思います。私が、自転車で心拍数をリアルタイムで表示しているのと同じです。ただい、その目標設定が外から与えられたものにするのではなく、「自分で選んだ」と感じてもらうようにしておくことが大事です。強制される状況は決してナッジではないので、自ら進んで動くようにそっと肘を押してあげるのです。その点では、他の選択肢も用意しておいて、その中から選べるような仕組みがあるとよいでしょう。そのうえでいったん使い始めれば、リアルタイムでフィードバックされて、目標達成率も数値化される仕組みが備わっているので、大いにやる気をもたらすと思います。
⚫︎心にゆとりをつくる、小さな仕組み
現在バイアス、参照点依存、サンクコストの誤謬──私たちの判断を無意識に歪めるバイアスは、日常のいたるところに潜んでいます。しかし大竹氏は、それを嘆くのではなく「前提」として受け入れ、ルール化や細やかな目標設計によって認知資源を守ることが、心の余白をつくる道だと語ります。自分で選び、自分のペースで進む。その小さな積み重ねが、心豊かな日々をかたちづくっていくのかもしれません。
【プロフィール】
大竹文雄(大阪大学 感染症総合教育研究拠点 特任教授)
京都⼤学経済学部卒業後、大阪大学大学院経済学研究科に進学し、博士号(経済学)を取得。 大阪大学経済学部助手、同大阪大学社会経済研究所教授、同大学院経済学研究科教授などを経て、2021年より現職。日本学士院賞、サントリー学芸賞、日経・経済図書文化賞などを受賞。
専門分野は、行動経済学、労働経済学。行政や企業におけるマーケティングリサーチやナッジメッセージの作成、行動経済学を活用したコンサルティング、アドバイスなどをおこなう。