なぜ、わかっていてもできないのか──行動経済学が解く心の仕組み

本シリーズ「心のゆらぎを知る」では、さまざまな分野の専門家へのインタビューや対話を通じて、心と向き合うことの意味を探っていきます。

日々心豊かに過ごしたい、これは多くの人の願いです。とはいえ夜、眠りにつく前に振り返ってみたとき、一日を思いどおりに送れたといい切れる人がどれだけいるでしょうか。自分なりに予定や計画を考えているにもかかわらず、判断を誤ってしまったり、心が揺らいで思わぬことをしてしまう。なぜ、そのようなことが起きてしまうのか。行動経済学を専門とする大阪大学の大竹文雄教授が、うまくいかない理由とそれを防ぐアドバイスをしてくれる2回シリーズの前編です。
⚫︎心豊かな状態とは

―はじめに、心豊かな状態がどのようなものなのか教えてください。

大竹:その答えは十人十色で人により違うと思いますが、少なくとも私自身についていえば「ゆったりと自分の考えをまとめる時間を持てている状態」です。なぜかといえば、そうではない状況が日々、結構な割合であるからです。時間に追われる中で、何とか締切りに間に合わせなければと仕事をあわててこなしたり、学生のサポートをしたり……。このようにバタバタしている状態では、心豊かだとは決していえません。私は大学の教員で政府の委員なども務めていますが、教育や社会貢献も大事な仕事ですが、まずは研究者ですからもっとも大切なのは自分の研究です。だから時間に追われることなく、集中して自分の考えを突き詰められているときは、本当に心豊かだと感じられます。

―学術研究に加えて学生を指導し、さらに政府関連の委員なども務めておられるため、日々とても忙しく過ごされているのですね。

大竹:ほかにもコンサルティングを手がけるスタートアップ「CoBe-Tech株式会社」を平井啓先生と2023年に起業しました。この会社では行動経済学と認知行動科学の知見を活かして、コンサルティング事業を手がけています。もっとも時間が足りないと感じるようになったのは、もうずいぶん前の話です。子どもが生まれて子育てに時間がかかるようになり、ちょうど同じ頃に大学でも管理職となって仕事が増えたのです。そのため限られた時間をどのように使えばよいのか、言いかえれば自分として何を重視すべきかと考えました。そこでまず「お酒を飲まない」というルールを決めました。

―お酒は、かなりお好きな方だったのですか?

大竹:大酒飲みではありませんが、人並みには楽しんでいました。とはいえ時間には限りがあります。お酒を飲んでいる時間もそうですが、酔いが残っている時間、飲みすぎて二日酔いになるとその後の時間も仕事の生産性が落ちます。だからといって、あるときは飲んでもよいけれど、別のときには飲まないという意思決定をするのも思考力を使います。あるいは、今日は何杯までなら飲んでもいいなどと考えることも意外に難しい。仮に今日は少ししか飲まないようにしようと思っていても、いざ飲み始めてしまうと結局たくさん飲んでしまいます。経済学では、現在バイアスといいますが、飲む前は1杯だけにしておこうという意思決定ができても、飲み出すと次の1杯だけと、やめるタイミングを先延ばしにするのです。それならいっそのこと最初から「飲まない」と決めてしまえば、何も悩まずに済みます。絶対に飲まないようにあえて自家用車や自転車で行くことにしておくのは、行動経済学でいうコミットメント手段の活用です。
お酒を飲んで酔えば、それなりに楽しいと感じていたのも事実です。一方で酔った状態が続いたり、二日酔いになるというデメリットもあります。そこで改めて飲んで楽しいけれど酔うことで仕事ができなくなる状態と、飲まずに楽しい状態つまりすぐに仕事に没頭できる状態を保つのとでは、自分にとってどちらが重要かと自問自答してみました。このように何か迷うような問題があれば、あらかじめ冷静に考えたうえで、どうするかを決めておくべきとするのが行動経済学の考え方です。熟考したうえでお酒をやめた結果、大切な研究に時間を使えるようになりました。
⚫︎誰にとっても限られている認知資源

―お酒を飲む・飲まないというような日常的な行動も行動経済学とつながっているのですね。

大竹:そのとおりです。行動経済学を研究する以前の私は、伝統的経済学の考え方に従っていました。すなわち可能な限り多くの選択肢を持っている状態が望ましく、その時々の環境や状況に応じて臨機応変にベストな選択をすべきだと考えていたのです。
これに対して行動経済学では、人の認知資源は有限であり、余計なことに悩んでいるとすぐに疲れてしまうと考えます。そもそも状況に応じて最善の選択肢を選ぼうとしても、人間はさまざまなバイアスに囚われているために、結果的に最善とはいえない選択をしがちであるというのも、行動経済学の知見です。
それならばじっくりと時間をとって考えられるときに、最善と思える選択をして、それをルール化しておくとよいわけです。もちろん常に環境は変化するので、ルール化によるデメリットもあります。しかし、常に最善を目指してもそれが実現できるとは限りません。最善でなくても次善の状態が達成できれば、最善を目指していて、それが達成できなくて、最悪の状態になるよりましです。そうすれば私としては集中して考えられる時間を確保でき、結果的に心の豊かさにつながると考えています。

―バイアスとは、先入観や心の偏りのようなものだと聞きましたが……。

大竹:人間が意思決定をする際に無意識に生じる、思考の偏りや心理的な歪みを、行動経済学ではバイアスと呼びます。バイアスは決して特殊な状況だけで起こるものではなく、私たちも日常生活の中で普通に経験しています。バイアスにはいろいろなものがありますが、その一つに「現在バイアス」があります。このバイアスの特徴は、計画したことを先延ばししてしまうことです。将来については我慢強い計画を立てることができるのに、いざその計画を実行しようとする際に、将来の利益よりも目の前の小さな利益を優先してしまって、計画を先延ばししてしまいがちになります。たとえば何か勉強しようと考えたのはいいけれど、苦手な科目は先延ばしして、ついつい好きな科目だけを勉強してしまうような傾向です。意思決定に関わるバイアスはいろいろなものがありますが、それを逆手に取れば自分の行動をよりよくするという意味で有効に活用できるようになります。一方で実際には広告などには、そうしたバイアスをうまく使ったものも多くあります。そのため、最初は買いたいなどと思ってもいなかったものを、いつの間にか買ってしまっていたという経験を、誰もがしているのではないでしょうか。行動経済学を知れば、広告に流されにくくなくなるかもしれません。
⚫︎ナッジを自分にうまく使う

―行動経済学では、たしか「ナッジ」という用語も使われていたようですが……。

大竹:ナッジとは英語の「nudge」という注意を促すために肘先で軽くつつく行為を指す言葉からきています。そこから「ある行動をそっと促す仕組み」という行動経済学の政策応用の意味でも使われるようになりました。2017年にリチャード・セイラーがノーベル経済学賞を受賞した理由は、行動経済学の重要な研究をしたことに加え、ナッジの手法で社会をより良くした功績を認められたことも大きいです。ナッジとは人が豊かに生きるための手段ですから、先に説明したような本人が後悔する行動を取らせてしまうような広告に使ってしまったときにはナッジとは呼べません。また、わかりにくい説明で望ましい行動を取らせにくくするものもあります。そうしたタイプのものは、行動経済学ではスラッジと呼ばれています。そのような使い方ではなく、人間が冷静にものごとを考えられる状況において、最善の選択肢に近づける手段がナッジです。言いかえれば、心の豊かさにつなげるのがナッジの精神です。

―ナッジも行動経済学の考え方だとすれば、改めて行動経済学において「心の豊かな状態」とは、どのように考えられるのでしょうか。

大竹:一般的には、気分のよさぐらいに理解されていると思います。行動経済学の観点から私が考えてみると、どうでもよいことで迷ったり不安になったりしないで、本当に大切な意思決定に集中できる状態が、心の豊かな状態だと思います。言いかえれば、日常の些末な選択肢や不安などに大切な認知資源を浪費せず、考えるべきテーマや行うべき行動に全力で取り組めている状態、これが行動経済学的な観点での「心の豊かな状態」ではないでしょうか。

―では実際に、心豊かに過ごしている人を行動経済学の視点でみれば、その行動からは何らかの傾向や特長を読み取れるのでしょうか。

大竹:やはり大切なのは、重要なテーマに集中できるよう時間を使うことでしょう。ナッジを自分に対して戦略的に使うともいえます。具体的な方法としては、先延ばしを防ぐために将来の約束をあらかじめ決めておく、つまりコミットメントする手があります。今より先の約束を決めてしまうのは、自由を奪われるような気がして嫌がる人も多いと思います。しかし約束しないでいると、人はどうしても先延ばししてしまいがちです。それなら早めにコミットメントして決めておくのは、悪くないやり方です。

―だとすれば「Mental Battery」や「Mentoring 2」もナッジとして有効なツールと考えられますか。

大竹:その可能性はあると思います。私たちは計画を立てるけれども、努力した結果が確実ではない場合にはヤル気を失いがちです。その意味では、努力した成果の「見える化」には大きな意味があります。さらに先延ばしを防ぐためには長期的な目標だけでなく、日々の目標設定も重要です。きめ細かな目標を設定したうえで、それを達成できたかどうかをリアルタイムで確認していく。そんな仕組みがあれば、現在バイアスや先延ばしなどを克服するうえで、大きなサポートになります。したがって「Mental Battery」や「Mentoring 2」は、リアルタイムでストレスの状態を観測できるという意味では、行動経済学的にも有意義な仕組みになる可能性があると思います。
⚫︎リアルタイムのフィードバックがヤル気につながる

―確かに何か努力したときに、リアルタイムでフィードバックを得られるとヤル気につながりそうです。

大竹:たとえば新型コロナ禍のときに、人の集まる場所では換気を促すためにCO2モニタが奨励されました。単にモニタを設置するだけで、人々が換気をするようになるのかと、直感的には理解しづらいです。しかし、実際に私の研究室に設置してみて、まさにその効果を実感しました。
研究室に一人でいるときには通常のCO2濃度である500ppmぐらいだったのが、学生たちが何人か入ってきて議論していると、すぐに1000ppmを超えます。モニタがなければ、まずこのような室内の空気の変化に気づいたりはしないでしょう。ところがモニタの数値を見ると「これはまずい」と思いますし、アラームも鳴りますので、私はすぐに窓を開けます。すると、夏なら暑い空気が入ってきますし、冬なら冷たい空気が入ってきて不快になるところです。しかし、モニタが示すCO2濃度があっという間にまた500ppmぐらいまで下がっていくのです。その下がっていく数値を見ているとなんとなくうれしくなる。暑い空気や冷たい空気が入ってくるという不快なことよりも、CO2濃度が数字として下がっていくことを見て、自分の行為の成果を観察できることがうれしいのです。これがリアルタイムフィードバックの効果だと改めて理解しました。なにか努力をしたときに、その行動を直ちに評価されると気分が良くなるのです。

―リアルタイムフィードバックという意味で「Mental Battery」や「Mentoring 2」には、ナッジ効果があると考えてよいのでしょうか。

大竹:自分の状態をリアルタイムで見える化してくれるのであれば、ナッジになっていると思います。ストレスを下げるための何らかの取り組みをしたときに、その成果がすぐにわかれば、ヤル気を高めてくれます。私は健康のために通勤に自転車を使っていますが、その際心拍数をリアルタイムで計測して、ハンドルにつけたスマホで見えるようにしています。上り坂で一生懸命に自転車を漕いで心拍数が上がると、体にはきついのです。通常なら辛い運動をやめたくなります。しかし、心拍数が上がっているのが見える化されると、まさに努力の成果が可視化されているので、やる気になるのです。自分の努力が心拍数の増加という即時報酬になって嬉しくなるのです。これと同じ原理ですね。

―ナッジ効果はさまざまなバイアスの克服にもつながりそうです。

大竹:まさにその通りで、現在バイアスや先延ばし傾向などを克服するためのサポートになると思います。さらに会社組織として個人の健康をサポートする意味では、数値があがれば具体的に何らかのインセンティブがあると、より効果的です。報酬を上げるというのは直接的すぎるかもしれませんが、何かで表彰されるというのも一案でしょう。うまく活用して働く人のモチベーションアップにつながれば、その人自身にとってメリットがあるのはいうまでもなく、組織全体にとっても業績向上などの成果を得られると思います。
⚫︎認知資源を守り、心豊かに

人の認知資源には限りがある。だからこそ、些末な判断にエネルギーを費やさず、本当に大切なことに集中できる状態をつくることが、行動経済学が考える「心の豊かさ」である。大竹氏はそう語ります。ナッジやコミットメント、そしてリアルタイムフィードバックといった仕組みは、私たちが自分自身の行動を穏やかに後押しするための知恵です。次回は、さまざまなバイアスの正体と、それを逆手に取って心に余白をつくる方法について、さらに話を聞いていきます。
【プロフィール】
大竹文雄(大阪大学 感染症総合教育研究拠点 特任教授)

京都⼤学経済学部卒業後、大阪大学大学院経済学研究科に進学し、博士号(経済学)を取得。 大阪大学経済学部助手、同大阪大学社会経済研究所教授、同大学院経済学研究科教授などを経て、2021年より現職。日本学士院賞、サントリー学芸賞、日経・経済図書文化賞などを受賞。
専門分野は、行動経済学、労働経済学。行政や企業におけるマーケティングリサーチやナッジメッセージの作成、行動経済学を活用したコンサルティング、アドバイスなどをおこなう。