本シリーズ「心のゆらぎを知る」では、MENTAGRAPH代表の安達淳とさまざまな分野の専門家との対話や、インタビューを通じて、心と向き合うことの意味を探っていきます。
心は、自分の中にある。誰もがそう思っているはずです。ところが自分の中にあるはずの、自分の心の状態を、自分では見ることができません。これも、多くの人が納得するところだと思います。それでも心豊かに生きるためには、自分の心を知る必要があります。このように心について思いを巡らしていると、一点どうしても避けられない問いが浮かんできます。すなわち「そもそも、心とはなんなのか?」――。
この問いの答えを見つけるため、人類進化学の研究者として人類の起源から現代社会の問題までを論じる総合地球環境学研究所所長(前・京都大学総長)の山極壽一氏と、心を巡る対話を行いました。
⚫︎心はどこにあるのか
安達:私は長年、自分の心との向き合い方を考え続けてきました。その成果の一つとして、目には見えない心の状態をテクノロジーの力によって可視化する「Mental Battery」サービスとスマートリング「Mentoring 2」を開発しています。これらは自分に関するメタ認知をサポートするアイテムです。とはいえ、心についてはまだまだわからないことばかりです。心についての考えをより深めるために、まず山極先生に伺いたいのが「心はどこにあるのか」です。
山極:その答えとしては、極論になるけれども、心はそもそも個体の中にはないんじゃないか。個体の中ではなく、心とは人と人との関係性の中に生じるものではないか、と私は思うわけです。心とは人が誰かと出会ったときに始めて発火するものである、つまり心は個人だけのものではなく、向き合う両者の間に生じるものだと。
安達:そのように出会いの中で生じるのが心だとすれば、たとえば先生が長年観察し研究されてきたゴリラ同士も、出会ったときに心が生まれているのですか。
山極:そこはゴリラと人間の違うところだね。人間はいったん自分を外に抜き出して相手と対峙できるけれども、人間以外にそんな芸当はできない。人間は自分を外から見て自分と向き合い、そこに独特な心を生じさせるわけです。これはゴリラだけでなく、どんな動物にも真似のできないことです。だから人間だけが「間に生じる心」を持つと僕は考えている。17世紀にデカルトは「我思う、ゆえに我あり」と人間を定義したけれども、これはまちがいだと思うね。西田幾多郎や和辻哲郎、今西錦司もいっているように「われ感ずる、我あり」が正しいと思う。
安達:ただし人は感覚や欲求だけでなく、信念によっても動かされますね。
山極:そのとおり、だから今、SNSに動かされる人が増えている。何も根拠などないのに、自分の好みや欲求に近いものをSNSで目にすると、それを自分の信念に近いものとして取り込んでしまう。これが人間の弱さでもあるんです。そのため最近では科学が通用しなくなっている。なぜなら科学は事実を語るけれども、信念を語ったりできないからです。多くの人がSNSで探しているのは事実ではなく、自分にとって都合のよい信念です。その結果として、とんでもない状況になっているわけです。
安達:人間は、自分の信念に基づく欲求によっても動かされるのですね。とはいえ、そもそも欲求が生じるのは、何らかの刺激を受けるからではないでしょうか?
山極:たしかに人間には刺激を受け取るための五感が備わっています。たとえば石を見たときと、ネズミを見たときでは生じる感覚が異なる。対象だけでなく訴えかけてくる先が何か、五感のどれかによっても受け止め方は違ってくる。ただし人間の五感が他の生き物の五感と共通しているわけでもない、ミツバチは人には見えない紫外線を見ることができるし、ゾウは人には聞こえない低音を感じ取っている。生き物はそれぞれ異なる感覚圏の中にいながら、それでも全体としての世界を共有しているわけです。
安達:生き物がそれぞれ異なる感覚圏の中で生きているというのは、たしかユクスキュルの環世界の考え方ですね。最近では植物と動物の関係性についても、新たな知見が出てきていると聞きました。
山極:そのとおりで植物は動けないから、動物に利用されるだけというのが、これまでの定説だった。ところが実は植物が動物をコントロールしているのではないかと考えられるようになり、その証拠が出始めています。あるいは人間は脳が大きいから、動物の頂点に位置すると思い込んできた。ところが脳の大きさで見ればゾウやクジラのほうが大きいし、体に占める脳の割合でみればタコのほうが大きい。しかもタコは中枢神経系に頼らず、八本の足それぞれに格納された神経系で足を別々に動かしながら、さまざまな作業をこなせるわけです。これだけ情報が氾濫する時代になると、むしろ中枢神経系だけを頼りにしている人間のほうが、弱くなっていく可能性もある。
⚫︎人間の立ち位置はどこにあるのか
安達:ひょっとすると人間はタコに劣っていたり、植物にも負けていたりするのでしょうか。
山極:勝ち負けで考えるなら、AIにも負けているんじゃないか。だからといって人間が、AIより劣っているなどという話ではない。AIと比べれば人間の良さが際立ってくるわけで、その良さとは「人間の欠点」なんです。AIはいとも簡単に他のAIとつながることができる。しかし人間は、他の人間の脳とつながったりはできない。だからこそ人間は、お互いの個性を尊重し合えて、対話したり付き合ったりできる。また、人間の脳が扱える情報には限りがある。だからいやな過去を忘れて立ち直ったりできる。
安達:人間の欠点と考えられていたところが、実は人間の良いところなのか。
山極:まさに。キャパの小ささこそが、人間の持っている利点なんです。自分の弱みを強みとして活かす、これを人間は社会の中でやってきた。そもそも生物というのは、それぞれの弱みをお互いに補完し合いながら、この世界を共有してきたわけです。それにもかかわらず人間は今、強さばかり拡大しようとしている。これが現代の最大の問題だと僕は思いますね。
安達:弱みを補完し合う姿勢が、生き物としてとても大切だという話にはすごく納得できます。弱みがあるからこそ、お互いに補完し合い結果的にうまくいく。これは人間にずっと以前から備わっている特性なのでしょうか。
山極:700万年ぐらい前に人間は、チンパンジーとの共通祖先から分かれて、それ以降は独自の進化を遂げてきたわけです。なかでも最初に手に入れた人間らしい特徴が直立二足歩行で、これは四足歩行に比べて速さも敏捷性も格段に劣っている。でも、二足歩行は長距離をゆっくりした速度で歩くとエネルギー効率がいいし、何より自由になった手で食物を運べた。だから木のない草原、大型の肉食動物がいるところでも、食物を安全な場所に運んで一緒に食べることができ、生き延びてこられたのです。その際に弱みを強みに変えた。つまり弱いからこそ、みんなで協力し合うようになった。
安達:なるほど、はるか昔から人間は集団生活していたのですね。
山極:単に集団で暮らしていただけではなくてね。食べ物について人間に一番近いゴリラやチンパンジーと比べてみれば、その違いがよくわかります。人間だけが、みんなで食物を分け合いながら食べる。ゴリラたちは基本的に、何かを食べるときはバラバラに散らばる。人間は逆に食べるときに集まるじゃないですか。つまり共に食べる行為を、お互いの平和の根拠とした。私たちは食べ物をめぐって争ったりしませんという、大前提に支えられているわけだね。
安達:食べ物が人と人をつないでくれる。ひとたびそんなつながりが生まれると、そこからさらに関係性が深まるように思います。
山極:その結果として人間には「見えないものを欲求する」という精神性が芽生えた。集団の中の誰かがいなければ、その仲間はきっと食べ物を持って帰ってきてくれるだろうと期待する。目の前にはいない人、つまり見えない相手です。やがてその相手が実際に食べ物を運んできてくれる。そのとき食べ物によって人と人がつながれる。人は見えないものを欲求する。これが人間独自の社会性の始まりだと僕は思いますね。
安達:人間は弱いから食べ物を分け合うようになり、人と人とのつながりが生まれた。まさに弱みを補完して強みに変えたのですね。
山極:もう一つ、人間がゴリラやチンパンジーと違うのは、多産だということです。毎年のように子どもを産めるのは人間だけ、ゴリラは4年に1回だし、オランウータンなら9年に1回しか産めない。最近でこそ少子化になっているけれど、人間は基本的に多産だった。ただし、生まれた子どもの成長は、決して早くはなかった。成長の遅い、手のかかる子どもをたくさん育てなければならない。これは明らかに弱みです。そんなに多くの子どもを、一人で育てたりはできない。だから、集団の中でいろいろな人が寄ってたかって子どもを育てる、つまり教育するようになったわけです。
安達:子育ても弱みを強みに変えたわけですか。しかも人間の子どもは、身体の成長より脳の成長を優先しますね。これも強みにつながったのでは?
山極:そのとおり。成長期が長いから、その間にいろいろ覚えられるようになった。しかも親だけでなく、一緒に暮らす他の大人たちからもさまざまに学ぶ。そうやって人間は複雑な社会に対応できるようになった。農耕牧畜が始まるまで、1万2000年前ぐらいまでの人間は、そのように暮らしてきたのです。
⚫︎個人の能力を高め始めた人間
安達:農耕牧畜により、食料を安定的に得られるようになりました。この一大変化は、人間の関係性にも変化を及ぼしたのではありませんか。
山極:まさしくで、極端にいえば紛争が起こるようになった。つまり人間同士が争うようになった。それがこの数千年、四大文明が起こってからの一大変化でしょう。人間は集団ではなく、個人の能力を拡大する方向に動いてしまった。これは人間の進化として間違っている。そもそも弱みを協力し合いながら強みに変えてきたのが人間です。ところが、その逆の方向に人間は力を拡大してしまった。その結果、人間社会が傷み、地球環境も傷んでしまった。これが今の僕たちが解決しなければならない、2大課題ですよ。戦争による人間社会の崩壊と、地球環境の崩壊、どちらも人間が個人の欲望を無節制に拡大してしまった結果として起きている。
安達:とても納得できる話です。人間の弱み、たしかに他の野生動物と比べると、本来人間は弱いですね。
山極:たとえば人間の歯を考えてみればいい。普通の動物は犬歯が長くて、これが強力な武器になる。あるいは手の先に鋭い爪を持っているのも、同じく武器として使えるからです。ほかにも速く走れたり、木に登れたりする。どれも人間は敵わない。
安達:まさに弱いところだらけ、だから弱さを強みに変えた。その過程で社会を形成し、協力し合うようにもなった。
山極:現代の狩猟採集民たちは、今でも個人の所有物をほとんど持っていません。何でも分け合いながら使っていて、それが強みとなっている。採集してきた食べ物は、みんなで平等に分け合いながら食べる。だから誰かが病気になったときには、みんなで助けてくれる。日本でも江戸時代ぐらいまでは、将来を心配している人などいませんでした。何かあっても、きっとみんなで助けてくれると思っていたからです。
安達:現状と比べてみれば、理想の共同体のように思えます。
山極:ところが今では人が人を信頼できなくなったため、制度やシステムに頼らざるを得なくなっている。だから保険をかけたり、預金を常に気にしながら個人の安全を制度に依存しているわけです。だけど、それで本当にいいのかって話ですよ。制度やシステムに頼るのはいいけれど、それが壊れてしまえば誰も助けてなどくれない。一方で人が人を信用するネットワークの中にいれば、いつでもネットワークが自分を助けてくれる。宗教が機能している理由は、そのようなネットワーク効果を未だに保っているからです。

⚫︎弱さを分かち合ってきた人間
心は個体の中にはなく、人と人との関係性の中に生まれるものではないか──山極氏はそう語ります。700万年の進化の中で、人間は弱さを認め合い、食を分かち合うことで社会を築いてきました。しかしその歩みは、農耕の始まりとともに個人の力の拡大へと変わり始めます。
次回は、産業革命以降に加速した「機械化する人間」と、それでもなお残る人間ならではの強みについて、対話が続きます。
【プロフィール】
山極壽一(総合地球環境学研究所 所長)
1952年東京都生まれ。京都大学理学部卒、同大学院理学研究科博士後期課程単位取得退学。理学博士。ルワンダ共和国カリソケ研究センター客員研究員、日本モンキーセンター研究員、京都大学霊長類研究所助手、京都大学大学院理学研究科助教授、同教授、同研究科長・理学部長を経て、2020年まで第26代京都大学総長。人類進化論専攻。屋久島で野生ニホンザル、アフリカ各地で野生ゴリラの社会生態学的研究に従事。 日本霊長類学会会長、国際霊長類学会会長、日本学術会議会長、総合科学技術・イノベーション会議議員、2025年国際博覧会(大阪・関西万博)シニアアドバイザーを歴任。
現在、総合地球環境学研究所 所長を務める。南方熊楠賞、アカデミア賞受賞。著書に『人生で大事なことはみんなゴリラから教わった』(2020年、家の光協会)、『スマホを捨てたい子どもたち-野生に学ぶ「未知の時代」の生き方』(2020年、ポプラ新書)、『京大というジャングルでゴリラ学者が考えたこと』(2021年、朝日新書)、『猿声人語』(2022年、青土社)、『共感革命-社交する人類の進化と未来』(2023年、河出新書)、『森の声、ゴリラの目-人類の本質を未来につなぐ』(2024年、小学館新書)、『争いばかりの人間たちへ ゴリラの国から』(2024年、毎日新聞出版)、『老いの思考法』(2025年、文藝春秋)、『ゴリラの森で考える』(2025年、毎日新聞出版)など多数。
安達淳(MENTAGRAPH株式会社 代表取締役/日本たばこ産業株式会社 D-LAB ディレクター)
JTグループのコーポレートR&D組織であるD-LABにおいて、新規事業企画・開発を担い、MENTAGRAPH株式会社を設立。前職はUX系のコンサルティングファームで、2018年より日本たばこ産業株式会社に参画。現在に至る。