本シリーズ「心のゆらぎを知る」では、さまざまな分野の専門家へのインタビューや対話を通じて、心と向き合うことの意味を探っていきます。
日々心豊かに生きたい──そう願わない人はいないでしょう。けれど現実には、働く人の多くが気づかないうちに心の不調を抱え、手遅れになってから初めてその深刻さと向き合うことになります。精神科医として「情報発信によるメンタル疾患の予防」を掲げて活動する樺沢紫苑氏に、心の不調が見落とされる構造と、そこから身を守るヒントを聞きました。4回シリーズの第1回です。
⚫︎治しても、また患者さんが来る
―樺沢さんは「情報発信によるメンタル疾患の予防」をビジョンに掲げて活動されています。その原点を教えてください。
樺沢:もともとは北海道の病院に勤める普通の精神科医でした。患者さんを治療するのはもちろん大切なのですが、治しても、また新しい患者さんが来る。精神科のメンタル疾患は、「心の風邪」という見方もありますが、一度なると半年、1年、場合によっては3年、5年、あるいはなかなか治らない方もいらっしゃる。これを繰り返していく中で、こうならない人を増やさなければいけない。そう考えて、予防ということを20年以上前から意識し始めました。
―予防の手段として、情報発信という道を選ばれたのですね。
樺沢:ちょうどインターネットやブログが出始めた頃でしたから、これからの時代はネットで多くの人にリーチすることが重要だと考えました。2004年から3年間、米国シカゴのイリノイ大学で精神医学の研究をしていたのですが、当時の世界の研究施設は、薬物療法の研究から予防の研究へとトレンドが移行していった時期でした。私も毎日、心の危機に関わる生物学的な要因、たとえばタンパク質の変化や遺伝的要因などを3年間研究していました。
―帰国後、その経験をどのように活かされたのですか。
樺沢:帰国してみると、日本でも心の病で深刻な事態に至る方が年間数万人規模で存在していました。対策は進んできましたが、予備軍を含めると数百万人以上にのぼります。病院の中で患者さんを助けることも大切ですが、健康な人、ちょっと疲れている人、病院に行こうか迷っている人。より多くの人にリーチするためにSNSやYouTubeでの発信を始めました。
⚫︎自分のメンタル状態を自分で判断することは不可能である
―働く人にとって、心の不調にどう気づくかが重要な問題だと思います。
樺沢:これがすごく大切な問題で、結論から申し上げると、自分のメンタル状態を自分で正確に判断することは、ほぼ不可能です。本当は「なんか調子悪いな」「会社に行きたくないな」と感じた時点で生活を整えたり、病院に行ったりできればいいのですが、ほとんどの人はそれができません。
―なぜ気づけないのでしょうか。
樺沢:自分の状態を把握する力を「メタ認知」あるいは「自己洞察力」と呼びますが、それができている人はおそらく全体の10パーセントから20パーセント程度です。メタ認知ができている人は、ストレスがかかったら「今週末は休もう」「仕事を少し減らそう」と自分で調整できるので、ひどい状態にまでいかない。逆に、それができない人は相当疲れていても「気力で乗り越えよう」としてしまい、気づいたときには深刻な心の病に至っている。あるいは、取り返しのつかない事態を招くケースもあります。
―メタ認知ができない人の方が圧倒的に多いということですね。
樺沢:しかもメンタルの調子が悪くなるほど、さらに自分の状態がわからなくなるのです。面白い研究がありまして、「眠れていますか」と聞いて「大体眠れています」と答えた人に実際にデバイスをつけて睡眠を計測すると、全然眠れていない人がたくさん含まれている。つまり、すごく健康な人が「自分は健康だ」とわかるのはいいのですが、気分が落ち込んでくると、ぼうっとして、もうろうとして、ギリギリのところで仕事に行って帰ってくるだけの状態になる。そうなった人が「今、自分は疲れている」と気づくのは、非常に難しいのです。
⚫︎眠れない、ミスが増えた──それは心のSOSかもしれない
―では、本人以外が気づくための手がかりはあるのでしょうか。
樺沢:いくつかあります。まず睡眠です。メンタルの調子が悪くなってくると、90パーセント以上の人に睡眠障害が起こります。眠れなくなる、眠りが浅くなる、途中で何度も目が覚める。食欲の低下もよく見られます。しかし、私が最も注目しているのは「ミスの増加」です。
―ミスですか。
樺沢:心の病が進むと、セロトニンとノルアドレナリンという脳内物質が低下します。ノルアドレナリンは注意力や集中力に深く関わる物質ですから、それが下がると必ず不注意やミスが増えてくる。たとえば、絶対に忘れてはいけないアポイントメントを忘れる、納期のある書類の提出をすっかり失念する。もともと真面目で几帳面な人にそういうことが起こってきたら、かなり脳疲労が進んでいるサインです。
―職場で一緒に働いていればわかるものですか。
樺沢:はい、わかります。書類のクオリティが明らかに下がってきた、日にちを間違えている、当たり前のミスをするようになった、あるいは新幹線にパソコンの入ったカバンを忘れてくるなんて話もあります。普通の人だったら絶対にありえないことが起き始めたら、相当な脳疲労のサインですね。こうした変化は、家族からも、職場の同僚からも確認できる兆候です。心のSOSは、行動の変化として表れます。だからこそ、周囲の人の気づきが重要なのです。
⚫︎認知資源を守り、心の不調を予防する
精神科医として20年以上にわたり「予防」の道を歩んできた樺沢氏は、自分の心の状態は自分ではほとんどわからないと明言します。メタ認知ができる人はわずか1~2割。不調のサインは、睡眠の乱れや思いがけないミスとなって行動に表れます。次回は、なぜ不調を抱えた人が「大丈夫」と言ってしまうのか──その心理と、早期発見のために周囲ができることを聞いていきます。
【プロフィール】
樺沢紫苑(精神科医、作家、映画評論家)
1965年札幌生まれ。1991年、札幌医科大学医学部を卒業し、同大学神経精神医学講座に入局。2004年より米国シカゴのイリノイ大学精神科に3年間留学。帰国後、東京にて樺沢心理学研究所を設立する。「情報発信によるメンタル疾患の予防」をビジョンに掲げ、インターネット媒体を通じて精神医学・心理学・脳科学の知識や情報をわかりやすく発信している。情報発信歴は20年を超え、メールマガジン、X、Facebook、YouTube、Instagramなど複数のネット媒体で累計100万人以上のフォロワーを擁する。「日本一アウトプットする精神科医」として知られ、シリーズ累計270万部を超える『アウトプット大全』『インプット大全』(サンクチュアリ出版)をはじめ、著書は55冊に及ぶ(2026年現在)。